博多曲物 十八代柴田玉樹(福岡県知事指定特産民工芸品)弁当箱・飯櫃・茶道具

福岡県の伝統工芸品 福岡県知事指定 特産民工芸品

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曲物の歴史

曲物の歴史

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薄く削がれた杉のまっすぐな木目、素木の材そのものが生み出すつややかな木肌。
博多曲物ーーーー清らかなその姿は神への奉祭具だったという。

◯ 森と木の国

・数万年の昔から
町なかで暮らしていると実感が薄いが、日本は「森の国」であり、「木の国」である。空から眺めれば、国土の大部分は森林に覆われ、その間を短い川が細い筋を描いて海に注いでいるのが分かる。
太古の昔から、森は人間の生活と密接に関わってきた。否、森こそが人間を生かしてきた。私たちの祖先は、木の実を拾って命をつなぎ、木を伐り、削って、道具をつくり、家を建てた。それは、この列島に人が住み始めた数万年前から変わらず続く営みである。
温暖な日本には数百種の樹木が育つ。柔らかい木、堅い木、軽い木、重い木、白い木、赤い木、黒い木… 先人たちは、それぞれの性質の違いを見極め、適材適所に使い分けてきた。
例えば、浮世絵の版木は、堅いが彫りやすく、狂いの少ない山桜が使われてきたし、箪笥には桐や水目桜、刀の鞘には朴、印材には桂、櫛には柘植などなど。さらには、防虫効果を見いだして樟脳を作り、種々の木枝を煮出して布を染め、薬としても用いた。柿のように、そのえぐみさえ柿渋として利用してきたものもある。驚くほかない知識である。

・木と人の暮らし
それもこれも、木が身近で豊かだったからだ。『木の文化』(小原二郎著)によれば、『古事記』『日本書紀』には、檜、松、杉、樟など、五十三種におよぶ樹木が記されているという。
なかでも興味深いのは、素盞鳴尊の説話である。尊は「韓郷の島には金銀がある。もしわが子の治める国に船がなかったらよくないだろう」と仰せられ、髭を抜いて放つと杉に、胸の毛を抜いて放つと檜に、尻の毛は槙に、眉の毛は樟になった。そして、その用途を決められ、「杉と樟は船をつくるのに、檜は宮をつくる木に良い。槙は棺材によい。そのためのたくさんの木の種子を皆播こう」と言われたという。また、尊が退治した八岐大蛇の背中には松と柏が(『古事記』)、体には檜と杉(『日本書紀』)が生えていたと書かれ、これは植林を意味するとも考えられている。
太古以来、杉や檜が建築用材としてもっともよく使われてきたことや、尊の言葉通り木肌が美しい檜が神社の社殿に用いられ、樟が古墳時代の船の用材として多用されたことは、考古学的にも実証されている。
また、高野槙が、畿内の古墳だけでなく、遠く朝鮮半島の扶余にある百済王の棺材として使われたことも明らかになっている。高野槇は日本にしか産しない。となれば、用材として日本から運ばれたと考えられるのである。
西洋では黒檀や樫など、見た目に美しい木が好まれてきたが、私たちの祖先は、杉や檜など、ごく普通に茂る木に優れた質を見いだし、使ってきた。高野槇を杉や檜と見分けることは、よほど木を熟知し、扱い慣れていないと難しいという。日本人がいかに木と親しく暮らしてきたかがうかがわれる。

◯ 曲物の歴史

・木工七職
「木工七職」という語がある。彫物(鑿や小刀などで木を彫ってつくる。仏像、人物像、装飾彫刻など)、指物(板を組み立て、枘でつなぎ合わせてつくる。組物ともいう)、刳物(手斧などで木を刳ってつくる。木鉢や盆など)、挽物(ロクロで木を挽いてつくる。椀や皿、茶櫃など)、箍物(短冊形の側板を円筒形に並べ、竹などの箍で締め、底板をはめ込んでつくる。桶や樽など。結物ともいう)、編物(竹や柳などを編んでつくる。笊や籠、網代、行李など)、曲物を指す。いずれも、日本人の生活と深く関わってきた木の加工品である。このなかで、刳物に次いで古いと考えられているのが、曲物である。
曲物は、古くは綰物、捲物とも書いた。「綰」は、つなぐ、結ぶ、丸く束ねる、輪にするなどの意味をもつ語であり、「捲」には、ぐるぐると巻く、丸く巻きつけるといった意味がある。また、「檜物」「わっぱ」「めんぱ」なども呼ばれてきた。
地域や時代によっては檜葉、松、蝦夷松、唐松、樅なども用いられたが、今日、私たちが「曲物」と聞いてイメージするのは、「杉や檜の柾目の薄板を曲げ、桜の皮で綴じ、底板をつけた器や道具」だろう。

・曲物の始まり
その曲物がいつからあったのかは、じつはよくわかっていない。古墳時代につくられていたことは、各地に出土例があることから確実だが、弥生時代晩期ごろまで遡るという説もあり、平成8年(1996)9月、秋田で縄文時代のものではないかという遺物が発見され、研究者の注目をあつめた。
薄板が用いられる以前の曲物は、柔らかい欅や樺の樹皮を円形や楕円形に曲げ、端を樹皮で綴じて底板をつけたものだったという。また、曲物は中国で始まり、漢の時代に漆器の木地として用いられたものが日本に伝わったという説もあるが、これも詳しくはわかっていない。

・多種多様な用途
わかっていないながら、曲物は庶民の暮らしに広く用いられてきた。その存在があまりに当たり前だったから、誰も由来や来歴など気にも留めなかったのではないか、とさえ思えるほどだ。他の木製の加工品に比べてつくりやすく、材料も身近にあり、大小、円形、楕円、方形など、サイズもかたちもいかようにもつくれた曲物は、桶や樽が広く使われるようになる近世まで、いわゆる「容器」の大部分を占めていたのである。
遺跡の出土品や、いまに伝わる絵巻物から、その主な用途を見てみよう。
まずは、水まわりの道具である。奈良県明日香村の7世紀後半の遺跡や平城京跡などからは、曲物の井戸枠が出土している。井戸枠は時代が下るにつれて出土数も増え、地域も広がり、組み方も多用になっていく。水桶や釣瓶、盥、柄杓なども、その多くは曲物でつくられていた。
飲食の道具としても、曲物は欠かせないものだった。弁当箱や飯櫃から、味噌など比較的水分の少ない調味料や、漬物、菓子などさまざまな食料の容れ物として、また、小麦や蕎麦などの粉物の分別に欠かせなかった篩や、蒸籠の枠にも曲物が見られるし、汁や湯、酒などの液体を注ぐための器(提子・湯桶)には、漆を塗った曲物が活躍した。今日の土瓶や急須は、この湯桶が焼物の技術を得て発展したものだという。
食以外での用途も多かった。『信貴山縁起絵巻』をはじめとする多くの絵巻物に描かれているのが、麻などを紡いだ繊維を入れる苧桶である。その繊維を糸に撚る糸車の枠、冠などの被り物を収める容器、行灯や提灯の上下の枠、火桶(火鉢)から物を運搬する道具まで、さまざまな曲物が日常生活に用いられた。

・神事・祭祀の道具としての曲物
用途として見逃せないのが、神事や正月、婚礼など「ハレ」の道具としての曲物である。つくりやすさと素木の清浄感が、霊器にふさわしいと考えられたことは想像に難くない。伊勢神宮をはじめ、鏡を御神体とする神社は各地に多い。人目に触れることは稀だが、その鏡を納める神聖な筥の多くは曲物である。
私達がよく知るのは、三方と柄杓だろう。三方は、方形の折敷を台に載せたもので、台の三方に穴があいていることから、この名がある。古代には食事用の台だったというが、神饌(神様に捧げられる食べ物)を盛ったり納めたりする容器として、また、一般家庭でも正月に鏡餅を載せる台としてなじみ深い。
水を汲む道具として欠かせない柄杓は、いまでも神社や寺院の手水舎で健在だが、元々は霊の容器として特別な意味を持つものだった。四国や西国の霊場を巡るお遍路さんや、江戸時代に大流行した伊勢参りの人々が、必ずといっていいほど曲物柄杓を携えて旅したのは、道中、喉の渇きを癒やしたり、食べ物の施しを受けとるためだけでなく、そこに神霊が宿ると信じられたからでもあった。

・新しい時代に
古墳時代にはすでに製法が確立していたといわれる曲物は、中世後期以降、「檜物師」と呼ばれた専門の職人たちによって日本の至るところで作られていた。それほどに生活必需品だった曲物は、明治維新とともに西洋からもたらされたブリキや銅版、アルミニウムなどによって影が薄れてゆく。いまではレトロチックなブリキのバケツは、当時、ぴっかぴかの”文明の利器”だったのだ。さらに、第二次世界大戦後に大量に出回ったプラスチック製品や電化製品によって、私たちの日常生活から多くの曲物が姿を消していった。わっぱと呼ばれた弁当箱などは、その典型だろう。
途絶える寸前だったその風向きは、昭和50年前後の石油ショックとその後の不況を乗り越えたころから変化を見せ始める。♪の~んびり行こうよ俺たちは あせってみたって同じこと…そんなCMソングが流行ったころだ。くらしに潤いとゆとりを求める心が自然素材へと向かい、伝統工芸の魅力が”再発見”されるにつれて、曲物も息を吹き返すのである。
現在、北は青森から南は宮崎まで、曲物を特産とする地は全国に十数ヶ所を数える。また、照明器具などのインテリア製品としての曲げものづくりをめざす作家たちの動きもある。1000年を超えて作り継がれてきた日本の曲物の歴史に、新しい風が吹き始めている。

◯ 細腕が受け継ぐ伝統の技

・博多馬出
「折敷に三方はようござっしょう…」かつて博多の町では、師走も半ばを過ぎると、曲物売りの触れ声が響いたという。声の主は馬出町から出向いて来る人々だった。
元禄年間(1688~1703)、福岡藩の儒学者・貝原益軒は、『筑前国續風土記』に「博多馬出町」を「箱崎八幡宮の西にあり。町の長二町五十四間あり。(略)此所を馬出と号せしは、むかし八幡宮の神輿、博多夷社迄下向し玉ふ時、此所より供奉の人の乗れる馬を出しける故に名とせり」「檜物師福岡博多に多し。ことに那珂郡馬出の町には、家々に捲を作る。皆羅漢松を用ゆ」と記している。
その博多馬出の曲物の縁起は、神功皇后の朝鮮出兵まで遡る。身重の身をおして西下した皇后は、帰国の途中、筑紫国蚊田(現在の福岡県宇美町)で後に応神天皇となる皇子をお産みになり、胞衣(臍の緒)を木筥に収めて、箱崎の松林に埋められた。その筥が曲物だったという。
「筥」は元々、米などを入れる竹製の丸いハコを意味し、四角いハコである「筐」や、荷車につける「箱」と区別されていた。そこから後にこの地に建立された社に「筥崎」という名がついたとも、博多曲物の端緖は延長元年(923)に造営された筥崎宮の柿葺きの薄板をつくる技術だったともいう。真偽のほどは不明だが、筥崎宮と博多曲物の関わりをうかがわせて興味深い。
筥崎宮の神人であった馬出の人々は、筥崎宮に奉仕する家筋を誇りとし、代々、神前に供える曲物の祭具づくりと社寺の屋根づくりを家業とした。「天気のときは屋根を葺き、雨の日は曲物をつくった」と筥崎宮の宮史にも記録されている。
時代が下り、技術が伝えられるうち、曲物づくりは奉祭品から一般の儀式用品へ、さらに、弁当箱、飯櫃、寿司桶などの日用品や博多独特の「ポッポーお膳」へと広がっていった。

15代柴田庄吉
・家業400年
曲物は永い間、庶民の暮らしになくてはならない用具だった。昭和の初めまでの馬出は、古い街道の両側に町家が連なり、柴田、西田、東郷など二十数件が、家族で仲睦まじく曲物をつくっていたという。その様子を”日本の民芸の父”といわれる柳宗悦は、「工芸を愛するものに、かかる町の風情は忘れられない活きた仕事場で凡てが動いている」と述べている。なかでも、柴田玉樹の家は、当代で18代を重ねてきた。
昭和4年(1929)に柴田家に宛てて筥崎宮が証した由緒書には、柴田家が筥崎宮の餝座(飾りつけの専門職)三家のひとつであり、代々、神輿の餝役や末社の供具の取次役を果たしてきたこと、後陽成天皇の御世だった文禄元年(1592)以来、筑前名島城主であった小早川隆景・秀秋父子や、黒田長政に始まる代々の築前国主から、江戸時代を通じて神領を下賜されてきたこと、さらに、明治6年(1873)に太政官令によって神宮の世襲が禁じられ、それに伴って筥崎宮の餝座の職を解かれた後の明治20年(1887)、14代吉右衛門の願い出によって復職したことが述べられている。
柴田家は、豊臣秀吉が権勢を誇り、出雲阿国が四条河原で歌舞伎を創始したころから、筥崎宮の家筋、柴田本家としての誇りをもって、その技を守り続けてきたのである。「企業は平均寿命30年」といわれ、吸収合併や業態変更が珍しくない現代、ひとつの家に流れた400年という時間には、他人には計り知れない遥かさと重さがある。

・父・玉樹と曾祖父・庄吉
柴田家は初代吉右衛門以来、代々長男が後を継ぎ、吉右衛門、伊右衛門の名前を順に名乗ってきた。ところが、17代を継ぐはずだった伊右衛門が戦争で亡くなったため、次男の玉樹(17代)が後を継ぐことになる。昭和7年(1932)生まれの玉樹が本格的に曲物づくりの道に入ったのは20代の半ばだった。
16代も早くに亡くなったため、17代は曲物づくりを祖父・庄吉(昭和31年没)に学んでいる。「木取りも曲げも、そばで見て覚えるしかない」スタートだった。
同じころ、柳宗悦とバーナード・リーチが工芸の調査のために小鹿田・小石原を訪れた折、柴田玉樹商店に立ち寄ったことがある。柴田家手づくりの寿司に舌鼓を打ったリーチは、そばにあった折敷を取り上げ、馬出という地名にちなんだのか、元気よく跳ねている馬を描いて満悦だったという。
つくれば飛ぶように売れた時代、父は数をこなすことで腕を磨く。柳宗悦がその美を見抜いた「百合」や飯櫃で知られる職人となり、昭和56年(1981)、福岡市の無形文化財「博多曲物」の技術保持者に認定される。これを機に「馬出の曲物」とか「筥崎の曲物」と呼ばれていた名称も「博多曲物」として定着。さらに、蓋置と菓子器が表千家の全国大会の記念品として使われたことにより、一級の茶道具として認められ、工芸品として全国に知られるようになるのである。

・父の死
18代柴田玉樹(本名・真理子)は、そんな曲物師の次女として生まれ、杉や檜の香りのする作業場で遊びながら育った。
「女は嫁に行くまで手伝うもの」と、小学生のときから、姉の妙子といっしょに仕事場の掃除や簡単な作業を仕込まれた。18歳で母を亡くしてからは、家事もこなしながら父の傍らで曲物をつくり、絵付けも任された。曲物づくりは家内手工業。「昔から、曲げは男、綴じや絵付けは女の仕事。好きも嫌いもない。見よう未真似で手伝ったし、それが普通だった」
結婚後も「父を助けなくては」と作業場に通い、会社を切り盛りし、体調のすぐれない父に代わって曲物づくりに励んだ。
頑固でわがまま。家のことはすべてすべて妻まかせ。仕事だけに打ち込み、夕方5時にはぴしゃっと仕事を終えて近所の酒屋で一杯…絵に描いたような職人だった父は、肺がんを患い、平成7年(1995)、64歳で急逝する。知人の保証人になり、多額の負債を背負って会社が倒産、家も仕事場も失った心労がたたったのだろう。規模を縮小しても曲物づくりだけは続けようとしていた矢先だった。

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・マイナスからの出発
あっという間に父が亡くなったとき、代々続く家業を守り継ごうと決意する。だがそのとき、倒産したことで社会的な信用を失った家は、どん底状態、自身は長男を産んだばかり。女であることも手伝って、材料の仕入れもままならなかった。
じつは一度、生前の父に「私がやろうか」と言ったことがあった。返事は「男(長男)がおるとに、男ば差し置いてなんばいいようとか。お前は嫁に行くっちゃろうが」だった。25歳の正月、集まった親戚の前で「後ば継ごうかねぇ」と言ったときにも、「女になんばできるか、ってぼろくそ言われた」のだという。しかし、いずれ継いでからと、手伝いの中であまり教えられていなかった長男は、別の道を選んだ。
「ここで止めるわけにはいかない」。一度は揺らいだ決意を固めさせたのは、17代続いてきた家業の重さと、20歳のころから本格的に修業してきたという自負だった。
父の四十九日の法要で出した一輪差しが、親戚の目を変える。「これだけ作りきるならよか」。柴田家の18代として認められた瞬間だった。
福岡空港にほど近い志免町に工房を移し、軒に筥崎宮飾職を示す注連縄を巡らして、曲物と向かいあう日々が始まる。
「横で黙って見ているだけ。しかも、何も教えてくれないのに、失敗すれば怒る」父から教わっていたのは、木の表裏の見分け方だけだった。「私に継がせるつもりがなかったから、教える必要もなかったはず」だからである。
木目を見ることができるようになるだけでも10年はかかる、という職人修業。「何もできんかったら仕方ないけど、つくりきるとに…と思ったから継げた仕事。まあ、好きだったんやろうねぇ」
一日一日、ひとつひとつ、手がコツを覚え、自然に動くようになるまで、どれくらいの時間が必要だっただろう。数をこなすことで腕を磨いていったのは、父と同じだった。
それから14年。日本民芸展への入賞や、京都の漆絵作家との共同制作、展示会など意欲的な活動を続け、平成19年(2007)に「玉樹」を襲名した柴田家18代の周囲には、「女だから」という声はもうない。
近ごろ、仕事中の姿が父に似てきたと言われる。「やっぱり親子やけんねぇ」と笑う。

・急がず、逆らわず
木を薄い板にし、熱湯で煮て柔らかくして曲げ、乾燥させて桜の皮で綴じ合わせる。曲物の工程は至って単純だ。しかし、だからこそ、押さえるべきところを押さえないと、文字通り、売り物にならない。一工程一工程、手も気も抜けないのが曲物づくりなのである。その実際を工房に訪ねた。
博多曲物の材は、目が詰まり、まっすぐに伸びた「無節柾目」が約束事。材を見極める目は必須である。
木は、割って見れば、育った土地の陽当たりのよし悪しや、こまめに枝打ちされたか、手を掛けて育てられたかといったことまでわかるという。昔はどんな木工品でも近隣の材を使った。博多曲物の場合は、若杉山の杉と檜だったが、大木が希少になった現在では、国内産のものを吟味して使う。
そうして取り寄せた原材が、すぐに使えるわけではない。最低でも1年は自然乾燥させる。後で煮るから構わないだろうと素人には思えるが、一度きちんと乾燥させないと出来上がりの寸法が違ってくるという。ここまでの時間を経て、ようやく手の仕事が始まる。
おおまかに製材し、荒削りしてから、つくるものに応じた厚さにするのだが、このとき、決して木に逆らってはいけないのだという。削りながら、色や木目の流れを読み、その材のどこをどう使うかを決めていく。板を煮るとき、湯をつねに循環させて、材から出たアクが再び木地に戻らないようにするのもポイントだ。
柔らかくした木は、いち、にの、さんで曲げ、巻木を外したら「ふわっと力をいれて」かたちを整える。流れるように続く一連の作業は、まるで木をあやしているようだ。父が元気なとき、お櫃を一度に50個つくったことがある。丸くつくったつもりのそれは、出来てみてば全部、楕円だった。それを見て、父はぼそりと「きれいにならんめえが」と言ったという。いま同じものをつくったら、合格点をもらえるだろうか。それとも… 永く続く「家業」とは、そこにいてもいなくても、つねに父や祖父の背中を見ながら仕事をすること、なのかもしれない。

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・伝統を継ぐ者として
曲物の最盛期は大正から昭和の初めにかけてだった。弁当箱、飯櫃、寿司桶… 父の代の製品には、米櫃から米をすくう「かすり」や、仏壇に供える飯器「御合」、砂糖を入れる「砂糖曲」、祝儀の際に鯛を入れる「柾板春寒」などの名前も見える。当時は駅弁の折箱もつくっていた。
戦後、その状況は激変する。プラスチック製品と炊飯ジャーの登場によって、曲物は容器としての用途をほとんど失ったといってもいい。曲物を「まげもん」と呼ぶ博多っ子もめっきり減り、茶道具と、やっぱりこれでなくてはという愛着に支えられて、いのちをつないできた。
その空気が少しづつだが変わってきている。例えば、最近、市内の幼稚園から園児用の弁当箱の注文を受けた。小さなころから「本物」に触れさせたいから、という。どんな大きさがいいだろう。子どもたちが手に持ったときのことを考えながら底板と蓋のサイズを思案する作業は、手間がかかる楽しいものだった。
塗りを施さない博多曲物は軽くて通気性がよく、ご飯が傷みにくい。杉そのものにも殺菌効果があるといわれ、優れた機能性で弁当箱として永く愛されてきた。
だがその前に、「小さな子どもたちに、素木の木肌の手触りや、ほのかな木の香りの心地よさを知ってほしい」と思う。小さなころから身近にあってこそ、曲物への愛情が育つと思うからだ。
長く作り継がれてきた博多曲物の「ポッポーお膳」もそうだ。博多の子どもは、このお膳の前に座ることで、七五三や正月などの”特別な日”の喜びや、自分が大切な存在であることを、知らず知らず教えられて育ったものだ。松竹梅、鶴と亀。先代までは、約束の絵柄を泥絵具で描いたが、博多人形師に教わって、発色と色もちがいいアクリル絵具に変えた。できるだけ長く使ってほしいからである。
博多曲物の魅力を少しでも広く伝えられたら。父が任されていた「『博多町家』ふるさと館」での実演を引き継いだのも、そんな思いからだ。全国各地から訪れる観光客に、日用の道具であること、丁寧に使えば十年二十年はもつことを博多弁で語っている。

・次の代に手渡すまで
板を削り、曲げる母の傍らでは、二人の息子が磨きの作業を手伝っていた。
二人とも、母と同じように作業場を遊び場に育った。昌吾は「絵が得意な佳吾にデザインを担当させて、僕が曲物をつくる」と言う。「急がなくてもいいから、ゆっくり、丁寧にね」。二人の手の動きを見ながら掛ける声は、曲物師でなく、母のものだった。
「この子たちのためにもきちんとした仕事をしなくては。基本を守りながら、自分らしさや新しさを加えて、若い世代にも親しんでもらえる用の具をつくっていきたい」。使って、洗って、使って…曲物はそうしているうちに桜の革紐が締まり、独特の光沢が出て手になじんでくる。「飯櫃に入れるとご飯の味が違うと言われると、やっぱり嬉しい。曾祖父の庄吉がつくった百合をいまも使ってくださっているお宅もあります。自分がつくった曲物を、そんなふうに味が出るまで使いこんでもらえたら、職人として本望」。願いをこめて、今日も木と向かいあう。

◯ 風土に根差し、伝統を創る

神事から庶民の日々の暮らしまで、曲物はじつにさまざまな場面で使われてきた。自然からもらったままの色は目にやさしく、なめらかな手触りとほのかな木の香は、ほっと心を寛がせる。
古式ゆかしい神事でも、こだわりの料理でもてなす食事処でも、すんなりとその場に溶け込み、用の具として役割を果たすその姿には、流行りのモノにはない鮮度がある。
風土に根差したモノは、時代を超える。「新しい伝統」は、多分、そこからしか生まれない。

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